PR

【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』義経から厚い信頼を得た武蔵坊弁慶とは

【大河ドラマ】 『鎌倉殿の13人』 義経から厚い信頼を得た 武蔵坊弁慶とは

「弁慶」という名前は誰しも一度は目にしたことのある名前ではないでしょうか。

ドラマや映画、それに小説に漫画、ゲーム!など、よく登場する人物です。

それに以外と色々な言い回しでも使われているので、身近によく聞く名前だったりします。

たとえば、
・「弁慶の泣き所」→人間の脛。
いっぱい鍛えていてもここは涙が出るほど痛いということ

・「弁慶の七つ道具」→弁慶が持っていた七つの武具
○○の七つ道具という使い方をする。

・「内弁慶」
家では強い
外では弱い人のこと。

などなど。

Haru
Haru

その為、武蔵坊弁慶は、日本人はもちろん
日本史が大好きな海外の方にも知られる人物です。

今回は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場する
この武蔵坊弁慶にスポットをあてていきたいと思います。

ドラマで演じられるのは元ラグビー選手の俳優、
佳久 創(かく そう)さんです。

スポンサーリンク

出生

武蔵坊弁慶は、紀伊国の出身。
生誕は不詳(「義経記」)。

伝承では
・母の胎内に18ケ月
・生まれた時には既に黒髪が肩まで垂れ下がっていた
・歯が揃っていた

と言われていて、

伝承からみると、身長208cm、体重100kgの巨体だったようです。

大きくて強いイメージからきた伝承だと思われますが、全て本当だったらホラーですよね。
「吾妻鏡」には名前のみの記載で、身長など詳細は不明)

弁慶は、幼少の頃から荒くれ者で、
父に「鬼子」と恐れられ殺されかけているそうです。

その後、引き取って育ててくれた叔母には
「鬼若」と名付けられるほどだったのだとか。

義経との出会い

成長した弁慶は、比叡山で修行した僧侶で、
優れた武術を会得していたといわれています。

そんな弁慶源義経と出会ったのは、

・京都の五条大橋での対決
(尋常唱歌「牛若丸」での逸話)

・清水観音の境内
(「義経記」)

と、その他にも諸説ありますが、

やはり、一番有名な説といえば、五条大橋説ですよね。

乱暴者の弁慶は力自慢に、千本の刀を武士から奪い集めようと目論み、
奪った刀は999本!

ラスト1本!

その時に出会ったのが義経

弁慶が襲い掛かると、義経は欄干を飛び弁慶の攻撃をかわし、返り討ちに。

以後、義経の家来となったというわけですが、
実はこのエピソード、創作されたものだそうです。

とはいえ史実があっての創作なので、
どこまで本当かはわからないにしても、
弁慶がめちゃくちゃ強くて力があった、
義経についていくことになったとかは、本当なのでは。と思われます。

豪傑

義経の家来となってからは「豪傑」と呼ばれるほどの活躍で、

「檀ノ浦の戦い」など平氏討伐の戦で、その名を轟かせました。

義経は兄・源頼朝との関係が悪くなり対立関係になり、
命を狙われる身となったのですが、

武蔵坊弁慶は最後まで義経についていき、運命を共にしています。

義経は頼朝から逃れる為、山伏の姿に変装奥州藤原氏の平泉に逃亡。

途中、「安宅の関」にて偽勧進帳を読み関を越えようとしますが、

関守・富樫泰家に義経だとバレてしまいます。

そこで弁慶は義経を鬼の形相で何度も杖で打ち、義経はそれを黙って耐える。

という義経と弁慶の信頼と絆が伝わってくる有名なエピソードがあります。
(史実は不詳)

富樫氏は心を打たれ、通過を許可するのでした。

「義経記」では、
・安宅の関→如意の渡しという渡し舟に乗船する時。
渡し守(平権守)に見破られると記されています。(以下は同展開)

その後、
源義経一行は奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せました。

このときの義経を匿うということはかなり勇気のいる決断です。
鎌倉勢を敵にまわしてしまうことになるのですから…。

「弁慶の立往生」

しかし、この英断からまもなくして藤原秀衡が病死。

頼朝は泰衡(秀衡の後継者)に、圧をかけてくるのです。

藤原泰衡は父・秀衡から「義経殿の御守りするように」と生前言われていましたが、

その命を破り、義経一行を襲ったのです(「衣川の戦い」)。

藤原勢500人にVS義経勢は10人と少し

武蔵坊弁慶は義経一家がいる館の堂の入り口で、
数百から放たれる矢を自分の体を盾に主君を護るのです。

弁慶は一歩も退かず、たくさんの数え切れない程の矢を浴び仁王立ちしたまま絶命(34歳)。

「弁慶の立往生」と語り継がれる壮絶な最期。

このエピソードも有名ですが、史実かどうかは不明です。
体も心も強い人だったことは伝わってきます。

ちなみに「弁慶の立往生」という言葉の語源は、立ったまま死ぬという意味なのですが、

現在では、前にも後ろにも退くもできない、立ち行かない状況のこととして使われています。

もともとは、これも弁慶からきていたんですね。

そんな弁慶の辞世の句と言われているのが以下の句です。

「六道の 道のちまたに 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも」

訳すと
「義経様、先立つ順番に後先があったとしても冥途への道の途中で待っていてください」

これに対し、源義経は
「後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで」
と返したと言われています。

武蔵坊弁慶に厚い信頼を抱いていた義経と
義経の器と才能に惚れ込んだ武蔵坊弁慶。

二人の固い絆を感じます。

これだけたくさんのエピソードやまだまた書ききれなかった逸話のある武蔵坊弁慶ですが、

史実にほとんど残されていません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました