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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』源範頼とは

【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』源範頼とは
Haru
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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場している
源範頼 (みなもと の のりより)に今回はスポットをあてていきたいと思います。

鎌倉時代初期の武将で、ドラマでは、迫田孝也さんが演じておられます。
「蒲殿」って呼ばれていて、
御家人の話もよく耳を傾けてくれるのですごく慕われてるのが印象的な源頼朝の弟です。
源範頼の正室は、有力御家人・安達盛長の娘(亀御前)。

では、さっそく見ていきましょう。

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源範頼とは

生い立ち

源範頼は、1150年(久安6年)頃源義朝の6男として誕生しました。

母は、遊女説と地元有力者の娘説があり、
源頼朝とは異母兄弟になります。

源範頼は、遠江国蒲御厨で密かに養育されたので、
蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)と呼ばれていました。

1159年(保元4年/平治元年)
「平治の乱」
父・源義朝が亡くなり、頼朝が伊豆に流刑に。

源範頼は、1161年(永暦2年/応保元年)以降に、
公卿・藤原範季が引き取り、自分の子ども(藤原範資)と一緒に育てました
(事の詳細、経緯は不明)。

挙兵~平家の滅亡

1180年(治承4年)
頼朝が挙兵。
「石橋山の戦い」
敗れましたが、鎌倉を占領。

1183年(寿永2年)
30000余騎を率いて常陸の志田義広(別名→源義広(頼朝の祖父の子))が
鎌倉を攻めるため挙兵した時の史料に
源範頼の名前が見受けられます。
小山朝政が源範頼を匿っていた説もありますが、
どのタイミングで頼朝と合流したのかはわかりません。

志田義広は、
鎌倉入りした頼朝とは連携せず、常陸国信太荘にて、独自に動いていました。
頼朝は、
・下河辺行平
・小山朝政
に対応を託します。

下野国にて「野木宮の戦い」勃発。
源頼朝VS志田義広
源範頼らが鎌倉勢に援軍として駆けつけ、
志田義広勢に勝利。

その後、志田義広は木曾義仲の軍勢に加わっています。

1184年(寿永3年/元暦元年)
頼朝に代わって「源義仲討伐」の大将となり、
大軍を率いて上洛。
源義経と合流。
そして勝利。
他の御家人との先陣争いで、乱闘に。

「一ノ谷の戦い」では、源範頼が、
・梶原景時
・畠山重忠
など30000の本隊を指揮。

・平通盛
・平忠度
・平経俊
・平清房
・平清貞
を討取り、

源義経と安田義定は、
遊軍10000を率いて、
・平敦盛
・平知章
・平業盛
・平盛俊
・平経正
・平師盛
・平教経
を討取ったあと、
源範頼は鎌倉に戻り、上洛の時の乱闘騒ぎで、謹慎処分を受けますが、
頼朝に頭を下げ3ヶ月後には、三河国の支配を認められています。

九州に逃れた「平氏討伐」において、頼朝の秘蔵の馬(甲一領)を与えられています。

源範頼は、北条義時らを従えて、原田種直などを破り、
博多・太宰府に進撃。
平氏の本隊は長門国彦島にて孤立。
源義経は海から、
源範頼は陸から攻撃し、
「屋島の戦い」にて、平家は滅亡。

その後

その後、源範頼は、
・神剣の捜索
・平氏の残党狩り
などの戦後処理を行いました。

その頃、自分で考えて先々に行動する源義経と険悪になっていた頼朝は、
源範頼に「自分勝手に判断せず相談するように」と、くぎを刺され、
そこからは、鎌倉への報告はわりとこまめにするようにしていたそうです。

また、頼朝から源範頼に、
義経を殺すように命じられるのですが、源範頼はこれを断り、
さらに立場が悪くなっていったともされています。

1189年(文治5年)7月
「奥州合戦」
源頼朝自ら出陣。
源範頼は最後の方で参戦。

1193年(建久4年)
5月28日
源頼朝が行った富士の巻狩り。
曾我祐成&曾我時致兄弟が工藤祐経(父親の仇)を討つ事件が発生。
(→「曾我兄弟の仇討ち」)

この時、鎌倉に「頼朝が討たれた(誤報)」との知らせが届き、
北条政子に対し、源範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたと言われています。

この発言が、
将軍の座を狙っている!と、誤解を受け、
謀反の疑いを招いたともされています。

源範頼は頼朝に忠誠を誓う起請文を送りましたが、

書状に「三河守源範頼」と、
源姓を記載していたため許されなかったとされていますが、
謀反を疑った理由などの記録は残されていません。

源範頼は武勇名高い当麻太郎(家人)を、
源頼朝の寝所の下に潜りこませますが、結城朝光らに捕まりました。
これは、当麻太郎の独断だった説もあります。

このことについて源範頼は尋問されましたが、言い訳をしなかったので
8月17日伊豆・修禅寺に幽閉。
狩野宗茂、宇佐美祐茂が監視役に。

当麻太郎は、大姫(頼朝の娘)が病気だったので恩赦があり、死刑にはならず薩摩に流されました。

その後の源範頼は、
源範頼の家人の
・橘太左衛門尉
・江瀧口
・梓刑部丞
らが、浜の宿館に籠もり武器の手入れをするなど、不審な動きをし、

・結城朝光
・梶原景時
・梶原景季
・仁田忠常
らによって討ち取れました。

これにも諸説ありまして、
日枝神社(修禅寺の東側)の下付近にあった信功院にて、自刃説もあります。

曽我兄弟の弟の原小次郎弟は、源範頼の縁座として処刑。

その後、
・大庭景義
・岡崎義実
出家。
曽我兄弟の仇討ちに何か関連があるのでは、と推測されています。

源範頼はというと、
越前へ落ち延びた説と、
領地の吉見観音に隠れ住んだ説、
伊予の河野氏を頼り北陸に逃れた、吉見観音に隠れ住んだ説、
石戸館で余生を過ごし、1200年に亡くなった説、
武蔵国足立郡石戸宿(安達盛長の領地)に逃れた説などがあります。

吾妻鏡には、
修善寺に幽閉との記載はありますが、自刃の記載はありません。

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