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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』相模国最強武士団の棟梁!三浦義澄はマルチな人!演じるのは、佐藤B作!

Haru
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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』相模国最強武士団の棟梁!
三浦義澄に今回はスポットをあてていきたいと思います。

武功はそれほどでもなかったようですが、
冷静な判断力&忠義心の伝わる逸話がたくさん残されていて、

源頼朝から重用されていた御家人の一人と言われていているのも納得の人物です。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、
三浦義澄の役を演じておられるのは佐藤B作さん。

では、さっそく三浦義澄がどのような人物で、
どのような人生だったのか見ていきましょう!

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鎌倉殿を支えた三浦義澄の人物像とは

出生

三浦義澄 は、

1127年(大治2年)
相模国三浦荘の役人だった三浦義明(三浦家の跡取り)の次男として生まれました。

幼名→荒次郎

三浦義明は
「三浦介」を称した人物で、義明の娘は、
源義朝(頼朝の父)の妻です。

二人の間には通称「鎌倉悪源太」で知られる源義平が生まれたと伝わっています。
(といっても義平の母は遊女だった説もあります)

一族の出身者は揃って「義」という字を名前に用いていますがこれは、
源義家(源頼朝の高祖父)から下されたものなのだとか。

京へ

1159年(平治元年)「平治の乱」33歳
源義朝に従い京へ従軍しました。

VS平重盛「待賢門の戦い」では、
義平(義朝の長男)の兵、源氏17騎の一人として、
平重盛を退けるほどの活躍をしましたが、

勝利の女神は平家方に微笑みました。

源氏の勢力が排斥され、
朝廷では、平氏が権勢を誇るように。

義澄は役職についていたので、何度も大番役を命じられ、上洛しています。

大番役…各地の役人の交代制で京の警備を担う役。

当主へ

1164年(長寛2年)38歳
兄・義宗が亡くなり、三浦家当主となりました。

1180年(治承4年)54歳

平氏VS後白河法皇

以仁王(法皇の第三皇子)が、全国の源氏に向け平氏討伐令旨を下した時、
義澄は京で大番役を務めていて、戦が起こったので、帰国が予定より遅れました。

戦が鎮まり、帰国を許可され真っ先に向かったのは、
源頼朝(平治の乱で配流となった)の住む伊豆国。

頼朝と密かに通じていた義澄は、挙兵の相談をしていたのではないかとされています。

挙兵

そして8月 源頼朝平氏討伐の為、挙兵。
三浦義澄も従うべく三浦荘を出発。

三浦義澄(三浦一族)は、頼朝と合流する為、
三浦半島を出発しましたが、生憎の大雨で、酒匂川が氾濫。

先に進めず、
「石橋山の戦い」に間に合いませんでした。

頼朝軍は大敗したことを聞き、
三浦半島に引き返しますが、

その途中で、平家方の畠山重忠軍と交戦になり、
たくさんの犠牲者を出し、両軍が引き上げましたが、

その後、態勢を立て直した畠山軍に
三浦氏の本拠地の衣笠城を攻められたのです。(「衣笠合戦」)

父・義明に義澄は城を捨てて逃げようと提案しましたが、
義明は、自分は老い先短いからここは任せて、
お前たちは逃げ延び源氏を支えるように、と言ったのだとか。

鎌倉入り

このあと、義澄は安房国(あわのくに(現・千葉県南部))へ渡り、頼朝と合流。
鎌倉入りを果たしました。

鎌倉入りしてすぐ、畠山重忠(父の仇)が源氏に下ることになり、
義澄の心中を察した頼朝は、

「降伏した敵を受け入れないと、平氏を討つことは叶わない。
どうか怒りを鎮めてくれないか(略)」と、言ったそうです。

以降、義澄は、恨みごとを持ち出さなかったそうです。

それだけではありません。

「石橋山の戦い」で平家方と対峙した時、
頼朝の背後を狙う形で伊藤祐親(義澄の正妻の父)も進軍していました。

祐親が鎌倉方に捕えられ、義澄は身柄を預かることになります。

北条政子(頼朝の妻)懐妊した時に、
義澄は祐親の赦免を申し出ると、
頼朝は承諾しましたが、
祐親は自刃の道を選びます。

たくさんの辛い感情を経験しながらも、
義澄は伏兵を用いて対抗勢力を退ける活躍をしたといいます。

このころに「三浦介」の呼称を与えられています。

三浦介…三浦の所領を安堵する意味を込められている。

1184~1185年(治承8年/元暦元年~ 元暦2年/文治元年)「源平合戦」58~59歳

義澄は、源範頼(源頼朝の代官として派遣された)に従いました。

「一ノ谷の戦い」
「壇ノ浦の戦い」
で武功を挙げましたが、
「壇ノ浦の戦い」では、武功以外にも逸話が残されています。

範頼軍→九州方面の平家方へ侵攻中。

前線での戦いを望んでいた義澄でしたが、「後方の警備もまた、信頼に足る者にしか任せられない」
と、範頼に言われ、義澄は周防国で待機しました。

すると「屋島の戦い」で讃岐国の平家方を追い詰めた源義経がきて、
義澄を案内役に命じ、壇ノ浦へ向かうことになりました。

その時に義経と梶原景時のいざこざを義澄が仲裁した逸話があります。

人柄が垣間見える逸話が目立ちますね。

1189年(文治5年)63歳
「奥州合戦」従軍。

1190年(文治6年/建久元年)64歳
源頼朝上洛に随行。

源頼朝→右近衛大将に任じられる。
三浦義澄も拝賀の列に参加。

三浦義澄は「右兵衛尉」という官職を与えられましたが、義村(息子)に譲りました。

1191年(建久2年)65歳
御所の新造。
大御厩造営奉行を務めます。

1192年(建久3年)66歳
源頼朝→征夷大将軍に任じられる。

朝廷より辞令を受け取る役目を義澄が果たしました。

13人の合議制

1199年(建久10年/正治元年)73歳
源頼朝が没する。

二代将軍には嫡男・頼家が就任。

まだ若かった頼家をサポートする為「13人の合議制」が発足します。

義澄もその一員。

1200年(正治2年)74歳
「13人の合議制」の一員・梶原景時が鎌倉幕府を追放される。

この時、連判状(景時を追求する)に、義澄も署名しています。
そしてこの「梶原景時の変」のあとすぐに三浦義澄は、病没しています。

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