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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』比企能員とは

比企能員(ひきよしかず)といったら
「比企能員の変」が浮かぶ方は
多いのではないでしょうか。

鎌倉幕府の御家人だった比企能員は、
頼朝が最も信頼した一族なのです。

えっ!?
北条氏じゃないのっ!?
と思った方もいるかと思いますが、

実のところは乳母の実家である
比企氏を最も信頼していました。

しかし、比企能員は一族滅亡してしまいます。

この滅亡の裏には陰謀説が囁かれています。

一体何があったのか…。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、比企能員を演じるのは、佐藤二朗さん!  

では、さっそく比企能員を見ていきましょう!

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比企能員とは

乳母

比企尼(ひきのあま)

平安時代~鎌倉時代(源頼朝が誕生した頃)
というのは乳母の力が強い時代でした。

頼朝にも少なくても4人の乳母がいたそうです。

その中でも、有名なのが「比企尼(ひきのあま)」
(ドラマでは草笛光子さんが演じられます!)。

当時、乳母を頼まれるということは
「あなたを身内同様に信じます」
という名誉なこと。 

とはいっても、お世話をするだけではなく、
成長に合わせて、
身内同様に祝儀を送るなどしなければならず、
決して簡単なことではありませんでしたが、

比企尼には、
・義朝殿に是非にと見込まれた
・意地でも頼朝殿に尽くす
・一人前にしないと!

という使命感がありました。

その為、比企尼は、
頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流罪となった時にも、
誰に頼まれたわけでもなく、

生活物資を送り支援し続けていたのです。

比企尼の生没年、実名や父母については、不明ですが、
3人の娘がいます。

3人の娘

・長女/丹後内侍→惟宗広言と密かに通じ島津忠久を産み、その後、
安達盛長(頼朝の家来)の妻に。

島津忠久は比企能員の家人。
手柄を立て、

文治元年(1185年)8月17日付で摂関家領島津荘の下司職に任命(頼朝の推挙)。

その後島津荘の惣地頭に任命。

忠久が薩摩に住み着いたわけではなく、

住んでいることが確認されるのは、五代目・島津貞久からです。

・次女/河越尼→武蔵国の有力豪族・河越重頼の妻(正室)に。

・三女→伊豆の有力豪族 伊東祐親の子/伊東祐清の妻に。

頼朝が八重姫(祐親の娘)と関係をもち、
祐親に襲撃されそうになった時、
密かに頼朝に、告げ逃がしています。

その時に、自分の烏帽子親である北条時政を頼るように助言したそうです。

その後、
祐清が討たれ、平賀義信の妻(正室)になりました。

次女と三女は源頼朝の子・源頼家の乳母でもありました。

猶子

女の子には恵まれた比企尼ですが、
男の子がいなかったので、甥の比企能員を
猶子(ゆうし)としました。

☆猶子→兄弟、親族の子を我が子として迎え入れること。義子。

で、比企能員の娘は、頼家の妻・若狭局。

子どもを「一幡」といいました。

大まかに見ていっただけですが、頼朝が比企尼に恩義を感じるのも納得ですよね。

そして頼朝がその恩義を返さないわけがなく…。

キャリアアップ

比企能員は
・奥州出兵の時→一手の北陸道の大将軍を務め(総勢三手)

・「大河兼任の乱」
東山道大将軍を務め

・頼朝上洛の際、右近衛大将拝賀の随兵七人の内のひとりに選ばれ

・勲功とし頼朝に御家人10人の成功推挙が与えられ

・右衛門尉に任じられ

順調にキャリアアップしていきました。

頼朝死後も、
・頼家の外戚
・13人の合議制

に加わり、
この時、御家人内で最も権力を持っていたといわれています

危機 ~比企能員の変~

この頃、
合議制により
・将軍権力を制限
・側近の梶原景時が討たれた

…と、少しずつ追い詰められていった2代将軍の源頼家は危機感を感じ、

阿野全成(阿波局の夫)に謀反の疑いをかけ殺害しました。

阿波局は、姉・政子に匿われます。

☆「梶原景時事件」で、阿波局(北条政子の妹)は、
景時没落のきっかけを作り、重役を
果たし、阿野全成(頼朝の弟)に嫁いでいます。

時同じくして、源頼家は病に倒れ、

北条時政は将軍権力を二分。

関西38ヵ国の地頭職を千幡(頼家の弟(のちの実朝))に、

関東28ヵ国の地頭職
&
惣守護職
を一幡に与える提案。
→可決。

病床の頼家はこれを知ると、
比企能員を招き北条氏を討つ計画をたてます。

しかし、この密事を
タイミングよく聞いていた人がいます。

北条政子です。

政子は、すぐさま父・時政に報告。

時政は大江広元に相談。
比企能員を討つ計画を立てます。

時政は「仏像供養の儀式」を口実に、
自分の館に比企能員をおびき寄せ、

やってきたところを誅殺。

その後、すぐに時政は
北条義時&泰時父子に兵を率いさせ比企館を襲撃させています。

館には、
・若狭局(頼家の妻)と
・一幡
がいました。

北条方には、
・三浦義村
・和田義盛
・畠山重忠
・平賀朝雅
・小山朝政
・結城朝光
ら有力御家人が参加。

もはや逃げ道はなく、
比企一族、頼家の妻子も皆殺しに…。

京都に使者を派遣し、
「頼家が亡くなった。3代将軍は弟の千幡をたてる!」
と言わせます。

ところが、病で一時、重篤だった頼家の病が快方にむかい、

比企氏が滅ぼされたことを知った頼家は激怒。

使者を送り、
・和田義盛
・新田忠常
「北条時政追討」を命じますが、

義盛はすぐに時政に報告。

口封じに頼家の使者と、忠常を討ちました。

頼家は病で、政務不能とし、出家させられ伊豆の修善寺に幽閉。

同日、千幡は征夷大将軍に任じられました。

この後、頼家は亡くなりました。
暗殺されたという説もあります。

比企能員に比企尼のような深慮遠謀さがあれば、
悲劇的な最期は免れたのでしょうか…。

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