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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』13の合議制の一員 八田知家 最も謎多きミステリアスな生涯とは

【大河ドラマ】 『鎌倉殿の13人』 13の合議制の一員 八田知家 最も謎多き ミステリアスな 生涯とは
Haru
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今回は、13の合議制の一員でもある
八田知家 (はった ともいえ)にスポットをあてていきます。

では、さっそくどのような人物だったのか見ていきましょう!

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『鎌倉殿の13人』で演じられるのは、市原隼人さん!

八田知家役を演じられる市原隼人さんは、今回で大河ドラマは二回目の出演となります。

前回は『おんな城主 直虎』(2017年)
龍潭寺の僧侶・傑山(けつざん)役で出演されていましたね。
鍛え抜かれた肉体美と容姿端麗の坊主姿が素敵すぎて、
思い浮かべただけでも格好良すぎてキュンキュンします。

直虎を陰で支える重要なポジションの役で、これがまた素敵さアップ。

ドラマを観て新たにファンになった方も多かったのではないでしょうか。

今回の役どころは、
・ミステリアスな存在
・北条の敵か味方か

と紹介されているので、

またまた市原隼人さんにピッタリの役なので、
新たな魅力でドラマを盛り上げてくださるのではないでしょうか。

目が離せない予感ですね。
楽しみです。

八田知家とは

八田知家の生い立ち

八田知家は、
藤原北家&道兼流の血を引く、宇都宮氏の出で、
藤原宗円(祖父)が下野守護となったことから東国と縁ができました。
常陸国新治郡八田を本拠としていたので、
八田氏を名乗るようになった
とされています。

1142年(永治2年/康治元年)
下野宇都宮氏のニ代当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男として誕生しました。
母→常陸国大掾である平棟幹の娘の可能性→不詳。

と、いわれていますが、
八田知家は、源義朝の落胤(十男)説や
寒河尼(頼朝の乳母)の兄弟説
母は、八田局(宇都宮朝綱の娘)で初めは朝家と名乗ったとされる説もあります。

八田知家の前半生については謎が多いです。
それは、八田知家の生没年が実ははっきりとしたものではないからなのかもしれません。

落胤(らくいん)→父に認知されていない庶子のこと。

これが本当だと頼朝の異母弟だということになりますが、
「保元の乱」の頃
頼朝は満年齢9歳。

八田知家が「保元の乱」に出陣していたようなので、これがもし本当だったら、
9歳より下は、さすがにないかな、と思います。
源義朝十男説は、あまり信憑性のない説なのではないかと思われます。

頼朝の挙兵

1180年(治承4年)
源頼朝挙兵。
「富士川の戦い」後、
源頼朝らは、
・上総広常
・千葉常胤
・三浦義澄
などを派遣。

「金砂城の戦い」で、
・佐竹義政
・佐竹秀義
を排除。
そのあたりで、八田知家は下野国茂木郡を安堵されています。

この時、
常陸国信太荘の河内源氏・源義広が、常陸国府で源頼朝と面会しましたが、
源義仲の軍勢に加わりました。

1183年(寿永2年)
「野木宮合戦」
VS志田義広(頼朝の叔父)

源頼朝は小山朝政に討伐を命じ、味方になったのが、
・八田知家
・城井信房
など。

・源範頼
・結城朝光
・長沼宗政
・佐野基綱
らと「野木宮合戦」で勝利。

八田知家は、
筑波山麓の筑波郡を与えられました。

1184年(元暦元年)
兄の宇都宮朝綱が平家の家人・平貞能の仲介で、関東に帰国。
平氏討伐で、八田宗綱は源範頼の軍勢に入り、そこで活躍。
平家討伐のため主力武士団を弟の範頼に与えて西国へ派遣。
八田知家も従軍。

範頼軍は、「葦屋浦の戦い」に勝利。
「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡。これに貢献しましたが、

義経が頼朝に無断で、
・左衛門少尉の任官
・檢非違使
の宣旨を受けた時、
八田知家も右衛門尉に任官されていたので、

頼朝より手紙で罵られています。(源義経の無断任官)。

1187年(文治3年)
鶴岡八幡宮での放生会
・源範頼
・大内義信
・加々美遠光
・安田義定
・伏見広綱
・小山朝政
・千葉常胤
・三浦義澄
・足立遠元
らと参列。

1189年(文治5年)
「奥州合戦」
・宇都宮朝綱(兄)
・千葉常胤
らとともに出陣。
大将軍に任じられ武功を挙げました。

多気義幹の失墜作戦

1193年(建久4年)
「曾我兄弟の仇討ち」後、
北条時政と、従兄弟の常陸大掾氏で常陸・多気山城の多気義幹を罠にはめる失墜作戦!

「八田氏が多気氏を討とうとしているよう」と噂を流し、それを聞いた
多気義幹は戦の支度を行いました。
そこで、八田知家は
「富士で仇討が起きたので、源頼朝のもとへ一緒に参じましょう」と多気義幹を誘いますが、
多気義幹の答えはもちろんNO。

で、八田知家は「義幹は謀反の心あり」と頼朝に報告。
義幹は鎌倉へ呼ばれましたが、
ちゃんと弁明ができず、
所領&所職を没収。

馬場資幹に与えられた、
身柄を岡部泰綱に預けられ失脚。

八田知家→常陸守護に任命。

のち八田氏→小田氏と称するように。

小田氏の始祖は八田知家と言う事になります。

更に、北条時政に敵意を抱いていた多気義幹の弟・下妻弘幹も排除。

1196年(建久7年)
「壇ノ浦の戦い」で敗れた藤原景清(平景清)が降伏。
一説では、和田義盛より八田知家が預かり、絶食ののち果てたとされています。
☆平景清は、たくさんの説が残されているので定かではありません。

13人の合議制

1199年(建久10年/正治元年)
源頼朝死去。
源頼家が鎌倉幕府2代将軍に就任。
八田知家は「13人の合議制」のひとりとなりました。

1203年(建仁3年)
阿野全成(頼朝の異母弟)頼家への謀反の疑いが露見。
源頼家の名を受け、常陸国へ流されていた阿野全成を、
八田知家は誅殺。

1218年(建保6年)
八田知家死去。
死因はわかっていません。

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