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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する源平合戦の英雄。
義経にはたくさんの武勇伝があり、現代でも人気のある武将です。
ドラマで義経役を演じるのは菅田将暉さん。
今回は源義経にスポットをあてていきます!
出生~牛若丸
源義経が誕生したのは
1159年(保元4年/平治元年)
父→源義朝
母→常盤御前
との間に九男として誕生し、牛若丸と名付けられました。
父の源義朝は、武勇に秀でていた人物で、
源氏の棟梁として関東地方を束ねていました。
母の常盤御前は、身分が低いお家柄のようですが、
京随一の美女と言われるほどの美女で、
1153年(仁平3年)源義朝の側室になっています。
ちなみに異母兄の源頼朝は、
1147年(久安3年)
源義朝と由良御前(正妻)の間で生まれています。
平治の乱
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そんな義経が生まれた1159年(保元4年/平治元年)
「平治の乱」が勃発します。
平清盛(平氏)VS源義朝(源氏)
父・源義朝は敗北して戦死。
父の顔もわからないうちに義経は父を失うことになったのです。
源義朝は敗戦した将となり、源頼朝(当時10代前半)は伊豆に流刑。
母・常盤御前は、子たちを守る為、平安京を抜け身を隠しましたが、
平清盛に捕えられました。
そこで、常盤御前は
「私は子たちが殺される姿を見るに絶えません。
子たちを殺すなら最初に私を殺してください」と、
言ったのだそうです。
平清盛は彼女の美しさは勿論、その覚悟に感服。
平清盛は、嫡男の源頼朝も助けていたので、
他の子たちの命も奪う理由はない。
と思っていたところもあり、殺されずに済みました。
この時代では考えられない奇跡。
その後、常盤御前は平清盛の妾になっています。
義経はまだ小さいとはいえ、自分の父を殺されて、
その後、自分の母を妾にするとか酷すぎやしませんかっ!?
この時代のことは理解しがたいことが多いです…。
遮那王
とにもかくにも一命を取り留めた源義経はその後、
11歳の時に鞍馬寺に預けられました。
遮那王(しゃなおう)と名乗っています。
将来出家すべく平穏な日々を過ごしています。
これは、決して邪魔者扱いしたのではなく、
権力者にもう一度、命を狙われないようにするために母が決断したことでした。
義経
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1174年(承安4年)頃
源義経は鞍馬寺での出家を拒否。
父の敵討ち(打倒平家)を目指し、
藤原秀衡(奥州藤原氏三代目)のところへ向かいました。
このとき、源氏にゆかりのある「義」の字と
初代経基王の字から「経」を用いて名前を「義経」にしたそうです。
その途中、都の五条大橋で超体の大きい人物が義経に喧嘩を仕掛けてきます。
この人物こそが、かの有名な「武蔵坊弁慶」です。
ここで盟友、武蔵坊弁慶に出会ったとされていますが、史実かどうかは不明です。
この喧嘩で義経が勝って、
今まで無敵だと思っていた武蔵坊弁慶は、強い義経を認め慕うように…。
源氏の御曹司ということを知ると、
義経の最後の最後まで側近として活躍。
奥州につくと、義経は藤原秀衡に快く迎えてもらいました。
1180年(治承4年)
以仁王から平家追討の令が発せられ、
このあたりから、情勢が変わっていくことになるのです。
藤原秀衡は静観し、どこにも属せずしていましたが、
源義経は、頼朝の挙兵を知り、
いても立ってもおれらず藤原秀衡の抑止を振り切り源頼朝のもとへ…。
義経と頼朝が初対面したのは、頼朝の平家軍勝利直後のことでした。
それから、義経はいくつもの戦で大大大活躍します。
戦
一の谷の戦い
・1183年(寿永2年)
「一ノ谷の戦い」
平家軍VS源氏軍
平家側が断崖絶壁なら防護できると考えていた断崖絶壁を、
義経は駆け下り、奇襲を仕掛けたのです!
有名な「源義経の逆落とし」です。
見事勝利!
破れた平家軍は、四国の屋島に避難。
源氏は水軍を持たないのでなかなか攻め込めずにいるところに、
背後から攻撃をするという源義経奇襲戦略。
思ってもないタイミングで、思ってもないところから仕掛けられて、少数の義経軍にあたふたと敗走。
壇ノ浦の戦い
1185年(寿永4年)
そして、いよいよ源平合戦ラストを飾ることとなる「壇ノ浦の戦い」。
義経軍はまたもや主力として大大大活躍。
壇ノ浦の戦いは水上戦。
しかも、流れが早くて超難所。
海をよく知する平家軍が圧倒的有利!
…でしたが、
敵の船乗りを狙い操縦不能にさせ、平家軍を大破。
八つの船を飛んで渡り、一瞬のうちに消え去るという
神がかった身のこなしで、猛将を倒し、源の勝利。
(「八艘飛び伝説」)
源義経は一躍ヒーローに。
平安京でもすっかり有名人。
順風満帆かと思いきやここから不穏な空気が流れ始めます。
源頼朝との対立
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戦後、義経について悪口?が頼朝の耳に次々と入ってきます。
義経は、
・源頼朝が送った梶原景時(司令官)の命令を無視。
・自分勝手な振る舞いが目立つ
・命じられた任務以外のところでも大活躍
他の武将らの恩賞が適切に与えられない
・後白河法皇から勝手に役職を与えられる
この他、義経の人望の厚さ&逸脱して優れた武勇を、
頼朝は危険視するようになっていくのです。
そんな中、源頼朝は義経に書状を送りつけます。
「命に反して朝廷から役職をもらったやつは、鎌倉に帰るな。平安京で頑張れ」
って的な内容。(かなりかいつまんでいます)
頼朝が目指すところは鎌倉幕府の樹立。
なので、朝廷と密かに関係を持っちゃうのはご法度。
危険人物とみなされるのですが、
義経には真意がさっぱりわからず、
頼朝の命を無視し、腰越(鎌倉手前)まで来て、頼朝に腰越状を送っています。
内容は→活躍したのに何で意地悪するの?
ってなこと。
返書は「平安京に帰れ」以上。
義経は激怒。
源頼朝も激怒。
義経の所領を全て没収。
源頼朝と源義経の対立は決定的に。
なぜ、頼朝の怒りを買ってしまったのでしょう。
頼朝の怒りを買ったと考えられる原因
〈その1〉三種の神器を取り戻せなかったこと
三種の神器は、天皇が即位される時に継承されるものです。
それを、平家に持ち去られてしまったので、取り戻そうとしていましたが、そのうちの一つの神剣を奪いそこねた義経は海に沈めてしまったのです。
〈その2〉頼朝の許可なく官位を得たこと
武士による政権、鎌倉幕府を目指していた頼朝は、自分の許可なく朝廷から官職を得ないようにと、配下の武士らに命令していましたが、義経は、頼朝の許可なく官位を得てしまったのです。
〈その3〉義経の人たらしが脅威に感じたこと
法皇の信頼を得たり、武士たちから人望が厚いのは、武家政権を目指していた頼朝にとっては、かなりの脅威。
ということだったのではないかと考えられています。
討伐令
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1185年(寿永4年)
頼朝は、義経暗殺部隊を派遣。
→失敗に終わる。
頼朝の動きに気付いた義経は後白河法皇に「源頼朝追討令」を直訴。
後白河法皇は源頼朝追討命を出します。
このあと頼朝と後白河法皇の間で色々取り交わされて、結局、後白河法皇は頼朝に寝返り
「義経追討命令」を発令。
源義経は朝敵となり、命を狙われることになりました。
1187年(文治3年)2月
義経は妻と子を連れ故郷の奥州へ。
朝敵の義経を匿う=源頼朝に敵対する
ということ。
藤原秀衡は今までどちらにもつかず静観していましたが、
源頼朝に対し敵意を示すことを英断した瞬間でした。
ところが、1187年(文治3年)10月
藤原秀衡が亡くなり、
息子・藤原泰衡が奥州を支配するようになると、不穏な空気が流れ始めます。
源頼朝は藤原秀衡を警戒していましたが、
息子はそれほどではないと見て、
圧力を掛けてくるようになったのです。
藤原泰衡は葛藤しますが、義経を討つことを決意。
1189年(文治5年)
藤原泰衡は、父の秀衡の遺言「義経を主人として奥州を守れ」を無視し、義経邸を襲撃。
奇襲を受け義経側の兵力はなく、源義経は自害。31歳。
妻(22歳)と子(4歳)も自害しています。
武蔵坊弁慶もこの地で命を落としています。
武蔵坊弁慶は命絶えたあとも、
薙刀を杖に、仁王立ちで立ち続け、敵を恐れさせたという逸話が残されています。
その後
1190年(文治6年/建久元年)
頼朝は藤原泰衡に対し、
義経を長年匿ってた罪は重い。
ということで、「奥州合戦」勃発。
奥州藤原氏は滅びました。
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