大河ドラマ『鎌倉殿の13人』
第21回放送回「仏の眼差し」では、
北条義時の留守中、預かっている孤児たちと川遊びを楽しんでいると、
孤児の鶴丸が川で溺れて、それを助けようとした八重は、川に入り、
そのまま帰らぬ人となりました。
ドラマとは状況は違いますが、実在した八重姫も、川で亡くなったとされています。
突然の愛する妻との別れに元気がない義時でしたが、
このあと再婚するんです!
名前は、姫の前(ひめのまえ)。
比企朝宗の娘です。
ドラマでは比奈(ひな)という名前の女性で、
北条義時の正室です。
今回は、この女性にスポットをあてていきたいと思います!
姫の前とは
誰もが憧れる女官
姫の前は、源頼朝の御所に勤める女官で、
権勢をあり、美貌もあり、誰もが憧れる完璧な女性!
なので、当然、頼朝のお気に入り。
しかも、北条義時も一瞬にしてハートを掴まれています。
ってか、この二人、好きなタイプ似てますよね!?
で、恋する義時は、ラブレターを何通も送りましたが、ず〜っとスル~。
全く相手にされませんでした…。
どうしてスル~したのか理由は史料として残されていないのでわかりませんが、
当時の結婚というのは「家柄」が最も重要。
北条氏の家柄は…というと、
・政子(義時の姉)が源頼朝の妻!
という事くらいが唯一の自慢の
出自は田舎の弱小氏族。
対する姫の前の実家、比企氏は、
・頼朝と頼家(息子)の乳母を勤めている家系。
・北条氏よりも先に頼朝と繋がりがある家柄。
・父は「内舎人」という朝廷の役職についていたことがある。
なので、釣り合わない、とかっていうことが理由でスル~していたのではないかと思われますが、
諦めきれない義時に、見かねた頼朝が一肌脱ぎます。
「離別はしない」という起請文をとり嫁に行くように姫の前に話して間をとりもってくれたのです。
義時の正室へ
こうして、義時の姫の前への本気をアピールし、
1192年(建久3年)
姫の前は、義時の正室となり、
子宝にも恵まれ、
1193年(建久4年)
北条朝時
1198年(建久9年)
北条重時
を出産。
しかし、頼朝亡き後、北条氏&比企氏の関係が悪化。
北条氏にとって、
・将軍の妻
・将軍の母
・将軍の祖父
の地位を比企氏に奪われる大大大ピンチ!
比企能員の変
そうして迎えた1203年(建仁3年)
北条氏VS比企氏の「比企能員の変」が起き、
北条時政&政子&義時に姫の前の実家である比企氏が滅ぼされ、
頼家の妻と息子も亡くなるのです。
北条氏の当主は北条時政(義時の父)は、なんとあろうことか、
大将を義時にして、比企氏の館を攻めさせたのです。
妻の実家を攻めるって、どのような心境だったのか想像し難いですが、
時代を考えるとこうするしかなかった…、という思いでしょうか。
義時は、「比企能員の変」の後、父・時政を追放。
執権職を引き継ぎました。
姫の前と離別した義時は、
伊賀朝光の娘の伊賀の方を継室に迎えています。
姫の前との間に交わした起請文、結果として破ることになったのですが、
なにか罰はあったのでしょうかね。
気になるところではありますが、義時はその後、
朝廷よりも強い鎌倉幕府を成立させたあと、
1224年(貞応3年/元仁元年)急死。
急だったので、毒殺?祟り?…など、色々な噂があります。
姫の前のその後
そして、姫の前ですが、「比企能員の変」の後のことは史料として残されていないのですが、
『明月記』によると↓
「源具親(頼朝とは関係のない源さんです)の子は北条朝時の同母弟」と記されており、
姫の前は「比企能員の変」後、義時と離別し、
源具親と再婚したのではないかと考えられています。
源具親との間の子は、
・輔通
・輔時
輔時はのちに朝時の猶子となっています。
「比企能員の変」から3年後、
1207年(承元元年)
姫の前死去。
と、されています。
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