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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』梶原景時とは~前編~

幾度も戦を繰り返し、世が平定し、
これから!ってときに、源頼朝は急死してしまいます。

急死したあと、嫡男・源頼家
鎌倉殿(第2代将軍)に18歳で就任します。

頼家は、偉大な父・源頼朝を超えたい!という思いから、
力が入り政治は独裁的になっていきました。

その独裁的な政治を制御し、まだ若い頼家を支える為、
将軍+有力な御家人たちが
話し合いで政治を決めていこう
ということで発足したのが、
「13人の合議制」

北条義時も父・北条時政もその一員です。

で、鎌倉殿の13人って、あとの11人はっ!?てなりますよねー。

その11人を紹介していきたいと思います。
(北条時政&義時は過去のこちらの記事をどうぞ)

今回は梶原景時(かじわら かげとき)
スポットライトをあてていきます!

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梶原景時とは

梶原景時は、源頼朝の最も近い側近として活躍していた人物です。

出生

1140年(長久元年)
相模国鎌倉郡梶原庄(鎌倉市梶原付近)を本拠地とする豪族の次男として誕生。

母親は横山孝兼(武蔵国多摩郡(現在の東京都八王子市)の武士)の娘。

梶原氏の皇族のルーツにあたる坂東八平氏に通じているとされています。

平安時代中期に、平高望(桓武天皇の子孫)が、子息と一緒に関東地方へと移り、
ここから各々別の氏族として各地に住み着いたとされるのが、坂東八平氏で、
平将門&平清盛もこの血族とされ、
梶原氏は鎌倉氏の一角といわれています。
(諸説あり)

景時は元は坂東八平氏の一つ「大庭市」と一緒に源氏に仕えていました。

平治の乱

ところが、
1160年(平治2年/永暦元年)
「平治の乱」
平清盛VS源義朝で、
清盛が義朝に勝った以降、平家に仕えるようになります。

1180年(治承四年)
「石橋山の戦い」

源頼朝は山木兼隆を倒す為、三浦氏(相模国の豪族)と合流しようと石橋山に軍勢を配備!

相模国・大庭景親をはじめとする3千人の騎兵がいて進めず、
数日後、頼朝は山奥へ追いやられ、
一緒にいた北条宗時は伊東祐親に討伐され、
北条時政と息子・義時は、
箱根の湯坂路を超え→甲斐国へ。

源頼朝を救う!?

頼朝は山中の洞窟の中で身を隠していました。
まさに絶体絶命のピンチ!

しばらくは見つからなかったのですが、
ついに梶原景時に発見されてしまいます。

当時、梶原景時は平家方
当然、頼朝は殺されるタイミング。

頼朝は
「ここまでか…。敵に殺されるなら自害しする」
と、刀を抜きましたが、

景時は「見なかったことにします。
あなたが国を治めるようになったときにはお礼をしてください」
と、頼朝の自害を止め

しかも、
洞窟の中を怪しんだ大庭景親は、自分でも洞窟を確認しようとしましたが、
梶原景時は「私を信じられないのか。 洞窟に入ったらただではおかぬぞ」と
大庭景親を止め、頼朝を救ったのです。

これを機に、平時方→源氏方になった。という有名な逸話が残されていますが、
一説によると
「史実ではなく源頼朝と梶原景時を結びつける為の伝承でしかない」
とも考えられているそうです。

源頼朝との再開

1180年(治承4年)「富士川の戦い」
平維盛を討伐。

大庭景親(平氏方)は降伏しましたが処刑。

一方、梶原景時は土肥実平を通し、鎌倉へ。

1181年(治承5年/養和元年)
源頼朝と対面。

以降、御家人となりました。

源頼朝は、
武士による政治を目指していたので、

・武芸に秀でた関東武士
・武士を統治する政治力

が必要でした。

梶原景時は、
貴重な弁舌&知略に優れ
ていて
その上教養もあったので、まさに適任でした。
源頼朝から信頼されるのは必然のこと。

・囚人の監視
・鶴岡八幡宮若宮の造営
・北条政子(源頼朝の御台所)の出産に関わる事
・侍所別当(軍事力&警察の役割を果たす部署)
を任され、

源頼朝に最も近い側近として、力をつけてていきました。

暗殺

その中でも最も大仕事となったのが
「上総広常の暗殺」

上総広常のもつ大軍事力は、頼朝にとって
欠かせないものですが、

・頼朝を軽んじる発言
・関東で独立を匂わせる発言
を日頃していたので、

敵にしたら面倒だなぁー。
邪魔になる前に消しちゃおー!
ってことに。

しかし、大勢の武士を率いる
上総広常を殺すには大義名分が必要です。

そこで頼朝の代行をしたのが、梶原景時だったのです。

1183年(治承7年)
梶原景時は上総広常とがすごろくをしている途中で、
突然、上総広常の首を切り落としました。

表向きの理由→「謀反の疑いあり」
本理由は、源頼朝の命令とされています。

これで終わるはずだったのですが、

その後の調べで、
上総広常の鎧から、源頼朝の武運を祈る願文が発見され無実が証明され、
頼朝は後悔したとされていますが、
邪魔に思っていたのは事実で、後悔しているフリだった説があります。

☆願文→神仏に願を立てる時、その趣旨を記した文のこと。

このことから景時以外の御家人は
頼朝に恐怖を覚えるようになりますが、
頼朝の梶原景時への信頼はさらにup!

(後編へ続きます)

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