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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』主人公・北条義時とは

北条義時はご存知でしょうか。

源頼朝(みなもとのよりとも)活躍の陰に北条氏あり…

北条氏は源頼朝を陰日向に支えながら勢力を拡大し、
頼朝のあとを継いで鎌倉幕府の実権を握る一族です。

少々マイナーな感じもありますが、武士の世をつくった功績を残すほどの武将でもあります。

では、どんな武将だったのか。

さっそく見ていきましょう。

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北条義時とは? 

誕生

北条義時が誕生したのは、

1163年(長寛元年/応保3年)。

父は北条時政(のちの鎌倉幕府の初代執権)。

姉は北条政子(源頼朝の妻)

兄は北条宗時

なので、義時は次男となります。

義時が生まれた時の北条家は伊豆の豪族でした。

当時は、政治の実権が公家→武家へと変わろうとしているそんな頃、

平氏VS源氏「平治の乱」

源氏が敗北。平清盛が勝利。

源氏の棟梁・源義朝は敗走中に殺害され、

源頼朝は伊豆蛭ヶ島に流されました。

その監視役を北条家が命じられていたことから、

北条一族源氏の関わりが始まったとされています。

1180年(治承4年)義時18歳

頼朝は後白河天皇の第三王子・以仁王(もちひとおう)の命により、挙兵(平氏追放の為)。

この時、義時は、

父・時政兄・宗時一緒に参戦。



「石橋山の戦い」を機に、

「治承・寿永の乱」(源平合戦)が始まり、

「葦屋浦の戦い」(あしやうらのたたかい)で、戦うだけでなく、

関東地方の武士の協力を仰ぐという功績を挙げ高く評価され、

時政&義時親子は源氏内での地位を確立していったのです。

頼朝は弟・義経を亡き者にした後、奥州藤原氏を攻略するのですが、この時も義時が信頼を得たそうです。

1181年(養和元年)義時19歳。

義時は、

源頼朝の寝所を守る11人のうちの1人に抜擢

寝所は、いつ襲撃に合うかわからない場所であり、

戦疲れを癒やす場所でもあります。

それほど重要な場所を任せられるということは、それだけ信用があったということがわかる人事です。

そして、頼朝征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府が確立。

戦乱の世が終わる…。

そんな矢先、1199年(正治元年/建久10年)頼朝が急死。

「13人の合議制」

嫡男・源頼家鎌倉殿(第2代将軍)に就任。

このとき頼家18歳。義時37歳。

頼家は独裁的な支配をしようとしていたので、独裁的な政治を制御し、

若く未熟な源頼家を支えるため、将軍だけでなく有力な御家人たちと話し合いで政治を決めていくことになったのです。

「13人の合議制」発足。

義時も最年少で構成者入りを果たしています。

もちろん父も構成者です。

で、鎌倉殿の13人って!?て、

気になるところですよねー。

北条義時 (ほうじょう よしとき)

・北条時政 (ほうじょう ときまさ)

梶原景時 (かじわら かげとき)

比企能員 (ひき よしかず)

・安達盛長 (あだち もりなが)

・和田義盛 (わだ よしもり)

・大江広元 (おおえ ひろもと)

・三善康信 (みよし やすのぶ)

・三浦義澄 (みうら よしずみ)

・中原親能 (なかはら ちかよし)

・二階堂行政 (にかいどう ゆきまさ)

・足立遠元 (あだち とおもと)

・八田知家 (はった ともいえ)

です。

この13人で話し合い政治の方針を決めていくのですが…。

中には北条と一緒に、源頼朝時代〜源氏の側近として活躍した人物

・比企能員

・和田義盛

がいたり、

源頼朝を支えながら自分が実権を握ろう!と考えていた

・梶原景時

がいたり、

他にも

・大江広元(おおえのひろもと)

がいたり、

…と、書き出すときりがないくらい。

そりゃそうですよね。

皆さん有力な方たちなのですからね。

気の合う人ばかりではなかったでしょうし、ましてや

・全員で力を合わせて協力

・同じ考えを持つ

というのは難しく…。

そんな中、会議で初めに決めたことは、

源頼家が直接、訴訟の決断ができないようにしたのです。

背景には、北条氏が力を持ちはじめたと比企能員は、

警戒していましたことがありました。

なぜかというと、北条家は北条政子頼朝の妻でしたよね。

源頼家の妻は?と言いますと、比企能員の娘なんです。

そんなこんなで、将軍家と血縁関係になったのに、北条氏の台頭を面白く思っていませんでした。

13人の合議制があると、将軍家の外戚として確立させた力が発揮できなくなってしまうのでは、と、

比企能員は、危機感を感じていたのです。

梶原景時の変

1200年(正治2年)義時38歳。

梶原景時、幕府から追放。

「梶原景時の変」

一族もろとも滅ぼされました。

諸説ありますが、これには北条時政が関わっていたとされています。

比企能員の変

1203年(建仁3年)義時41歳。

頼家の病がわかり、

頼家の持つ土地は頼家の子どもたちに引き継ぐことに、

13人の合議で決定。

しかし、頼家の承諾なく決めたことに頼家は激怒。

義父・比企能員に北条時政の征伐を命じますが、

身の危険を察知した北条時政は、

比企能員一族を「謀反の疑いあり」とし、

自宅に招き入れ、滅ぼしてしたのです。

「比企能員の変」

その後、北条時政は頼家の将軍職を廃止。修善寺に追放。

自身の軍勢を送り込み、頼家を暗殺。

北条氏が実権を握れるように動き始めたのです。

独裁体制

次に第3代将軍になった弟の実朝は12歳。

北条時政は政所別当に就き、
政治の実権(将軍の補佐として実質的に実験を握るポジションのこと)を握りました。

父を見て育った義時は、その才を身につけていきました。

義時は父とともに有力御家人の処刑を進めていきます。

そしていよいよ北条親子VSへとすすんでいくのです。

北条時政が実朝暗殺を企てたとき、義時はこれを阻止

時政は失脚

執権は義時へと引き継がれたのです。

時政は実朝の名前を使わず、

自分の名前で御家人への命令&決定を好き勝手に下すようになっており、

将軍を無視するこのやり方に多くの御家人からの反感を買い、

人望は失われていたのを側で見ていた義時は、

同じ失敗をしない為、命令を下すときは必ず将軍の名前を使いました。

こうして鎌倉幕府の運営は、

合議体制→北条義時&北条政子中心の独裁体制へと変わっていきます。

1213年(建保元年)義時51歳。

北条氏を倒す計画を立てていた和田義盛一族を討伐。

義時は政所別当+侍所別当を兼務。

執権として強い力を持つようになります。

1219年(承久元年)義時57歳。

実朝が甥・公暁(くぎょう/こうぎょう)に殺害され、源頼朝直系の血族は根絶。

幕府は混乱状態。

この暗殺にも北条氏が関わっていると考えられています。

1221年(承久3年)「承久の乱」勃発。

北条氏の勝利で、天皇家の権力は弱体化。

鎌倉幕府の支配は全国に及びました。

このとき義時59歳。

以後、鎌倉幕府の将軍は、

摂関家

皇室

から迎えられるようになりますが、どれも形式的な存在なだけで、鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることになったのです。

1224年(貞応3年/元仁元年)

衝心性脚気で、62歳に亡くなりました。

まとめ

義時は争いに次ぐ争いの人生のなかで、ついに覇権を手に入れたのです。

史実は、「吾妻鏡」(後世に鎌倉幕府の中枢によって編纂されたもの)によるものが多く、

争いに関するきっかけや経緯には諸説ありますが、

義時は、時流を見る目が鋭く、常に勝つ方を見極め地位を確固たるものしてきたのは確かなのではないでしょうか。


・時の流れを見る目

・冷静な判断力

・実力

・強い意志

・臨機応変に動く行動力

こうして、義時は、

伊豆の豪族生まれから、武家の頂点にまで成り上がったのです。

父との対立から悪人イメージを抱く人が多かったのですが、

近年の研究で、そのイメージだけで捉えきれない他の義時の人物像も見えてきています。

彼の人生を知れば知るほど魅力的で、学ぶところがたくさんありそうです。

源頼朝が義時に対しこんな言葉が残しています。

・「他日必ず子孫の補佐たらん」

→いつか必ず私の子孫の補佐になるであろう

・「義時を持って家臣の最となす」

→これは読んで字の如し

こんなふうに称されていたそうです。

厚い信頼があったことが伺える言葉ですね。

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