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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』木曽義仲の愛妾 巴御前とは

前回、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で登場する木曽義仲に注目しましたが、
義仲を知ると、巴御前ってどんな女性だったのだろう?と、気になったので調べてみました。
では、さっそく見ていきましょう!

木曽義仲についてはこちらの記事からどうぞ。

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出生

巴御前の父は中原兼遠。

中原兼遠は、幼かった義仲を匿って育ててくれた人です。

巴御前は、
木曽義仲より3歳年下で、兄弟のように育ちました。

色々な伝承からみると
・色白
・ロングヘアー
・超絶美女

といった、とにかく美しい女性であったことがわかります。

ですが、おしとやかな女性というよりは活発な女性で、

・樋口次郎金光
・今井四郎兼平
といった兄たちのように義仲の従者となりたくて、
子どものころから乗馬、弓、刀も操っていたようです。

成長した彼女は、義仲軍の一大将として活躍した女性武将として有名で、
彼女の勇猛さは伝説が残るほどですが、彼女の強さがわかる武勇伝的な史料は、実はありません。

義仲と

そして、義仲と過ごす時間を重ね自然と、互いを大切に思い合うようになったと伝わります。

義仲と巴御前は、夫婦だと思われがちですが、
「便所(びんじょ)」と呼ばれる愛妾でした。

正室は、関白の藤原基房の娘・伊子です。

一説では、中原兼遠が、
おとなしかった巴の姉の山吹(海野氏(信濃の豪族)の娘説もあります)と
義仲を結婚させた、という説。

また、義仲は「争いのない信濃国にしたい」と願っていたので、
他の豪族と結婚し、勢力拡大の道を探ります。

巴御前は複雑だったでしょうね。

愛妾という立場に留まり、義仲と時代を切り開く同志としての歩む決意をしたのです。

粟津の戦い

義仲の最後の戦「粟津の戦い」においても、巴御前は、臣下として義仲と共に戦いました。

義仲、巴御前、最期のとき
義→「我はここで討ち死にする。“木曽殿は最後まで女を連れていた”とあっては聞こえが悪い」

巴→義仲の側を離れませんでした。
(「平家物語」より)

義→「逃げるように」と繰り返しました。

巴→「私の最期の戦いをお見せ申し上げたい」

と言い、敵を待っていると力持ちで知られる御田八郎師重が、30騎ばかりで現れ、

巴御前はその中に駆け入り、御田八郎をつかみ馬から引きずり落とし、
馬の鞍の前輪に押し付け首を素手でねじ切って捨てたあと、

武具を脱ぎ捨て、逃げていったのです。

巴御前は、愛している義仲と最期を共にする覚悟であっと思いますが、
義仲の自分に対する気持ちも感じたことが伝わってきますね。

その後

その後の巴御前については、「平家物語」では語られていません。

「源平盛衰記」によると、
信濃に落ち延び

捕らえられ

鎌倉へ

敗軍の将として死罪と言われ

和田義盛が
「この剛の者との子どもが欲しい」と助命を嘆願

和田義盛の妻となる

朝日奈三郎義秀(豪勇を誇った)を出産

和田一族滅亡

石黒氏(福光城主)を頼り越中に住む

出家

91歳で亡くなる

と、伝えていますが、史実の裏付けがとれるしりがないので、フィクション説が強いです。

あと、巴御前と朝日奈三郎義秀の実年齢を考えるとありえない。

また、「吾妻鏡」に、越後の強弓の女武者「板額御前」の伝記が、巴御前とほぼ同じ。

で、混同して伝わっているのでは。
というものです。

結局、離脱し、義仲と別れたあと生き延びることができたのかさえもわからないのです。

実在したとも言えるし、
実在していないとも言える存在なのに、
たくさんの武勇伝が今でも語り継がれており、

巴御前の塚は全国に15ヵ所。
伝承は各地に現在も息づいています。

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