今回は、大江広元の5歳上の兄、
中原親能(なかはらのちかよし)に注目していきたいと思います。!
ちなみに、大江広元の記事はこちらからどうぞ。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で
中原親能を演じられるのは、川島 潤哉さん!
川島 潤哉さんは、
有名な朝ドラや映画ドラマに多数出演されているのですが、
調べると、全部同じ人だったのー!?と、
驚いてしまうほど印象が違うので、別人だと思っていたんです!!!
それだけ演技力があって、
どのドラマにも馴染んでいたので「鎌倉殿の13人」でも、
ドラマの世界に引き込んでくださる俳優さんのひとりなのは間違いないでしょう。
意外なことに、大河ドラマは今回が初出演!
どんな演技で魅せてくれるのか楽しみですね!
では、さっそく中原親能について見ていきましょう!
出生
中原親能の生まれたのは、1143年(康治2年)とされています。
中原親能の生年については、残された資料によって違いがあり、
詳細は未だ不明なところが多く、はっきりとはわかっていません。
説その1
・参議の藤原光能の実子で、
中原広季(母方の祖父)に養子になる
(「大友家文書録」より)
説その2
・実父→中原広季
(日本の系図集「尊卑分脈」より)
どちらにしても中原広季とは関係が深そうですね。
幼少期は相模国(現在の神奈川県)で育てられ、
成人してから京に戻って、権中納言の「源雅頼」に仕えていました。
で、はっきりいつかはわからないのですが、
この頃までに、源頼朝と中原親能は、親交があったと伝えられています。
源氏へ
1180年(治承4年)
平氏より、逮捕命令が出されました。
理由は、中原親能の当時の職は、「斎院次官」と称される公職に就いていたのに、
流刑されていた源頼朝と連絡をとっていたからです。
つまり「反平氏派活動」というわけです。
平氏の捜索は、源雅頼邸(中原親能の主君)にも及びましたが、中原親能の行方は既に不明。
京を出で鎌倉へと下向し、源頼朝の家臣として、正式に仕えることになったのです。
父・中原広季の影響で、明経道などを学んでいた中原親能は、幕政にとって必要不可欠な存在。
文官に適していたのです。
幕府が成立した時に「文官として携わってほしい」と、
源頼朝の申し出を受けて鎌倉へ下向したのでは、
と考えられています。
また、公卿・九条兼実による日記「玉葉」に、
1183年(寿永2年)9月
源雅頼の元へ
「中原親能から飛脚が送られてきた」と記述あり。
手紙には、頼朝の使者として中原親能が上洛する旨が書かれていたので、
既に頼朝に仕えていたのでは。と、推測できます。
源頼朝&源義経兄弟の従兄弟・源義仲が上洛したことに伴い、
1183年(寿永2年)10月
源義経率いる軍勢が木曾義仲を討つ為、京へ入りました。
木曾義仲VS源義経
木曾義仲は敗れています。
この時、中原親能は頼朝の代理で京に赴き、公家との交渉の場面で活躍。
翌年1月
源義経軍が再び上洛した時にも中原親能は同行しています。
77代天皇「後白河法皇」&貴族らの交渉担当。
そのまま京に残り、後白河法皇による上洛の命を頼朝に伝達する為、鎌倉へ。
平氏討伐軍の奉行として再び京へ。
このように東西を行ったり来たりしていた中原親能は「京都守護」と称されるようになりました。
1184年(寿永3年/元暦元年)10月
源頼朝が御所に、家政機関の「公文所」を設置。
中原親能は、これまでの朝廷、幕府における
「折衝役」として功績が認められ「寄人」(公文所の職員)に選出されました。
ちなみに、寄人は5人。
中原親能はそのうちのひとりだったのです。
すごいですね!
中原親能が幕府に貢献したのは、文官としてはもちろん、戦においても貢献しています。
戦
「源平合戦」では、
源頼朝の源範頼(異母弟)の参謀として各地を転戦。
1185年(寿永4年/元暦2年)
「壇ノ浦の戦い」では、
平氏軍を追い詰めて滅亡させ、
頼朝より感状を賜りました。
中原親能はの才能は、文官としてだけではなく、武人としての一面もあったのです。
「壇ノ浦の戦い」の後、
「政所」の「公事奉行人」に就任しています。
頼朝から実務官吏として重用され、
+
1189年(文治5年)
「奥州合戦」に従軍。
その戦後処理にも担当。
幕政の行政面&軍事面の両方を補佐することで活躍していたのです。
1199年(建久10年/正治元年)
源頼朝が亡くなりました。
13人の合議制
2代将軍・源頼家が就任。
「13人の合議制」発足。
中原親能もその一員に。
源頼朝の次女「三幡」(中原親能の妻が乳母)が、
頼朝の死から約5ヵ月半後、14歳という若さで死去。
この訃報に中原親能は、京よりすぐに駆け付けたあと、出家。
「寂忍」(じゃくにん)と号しました。
1195年(建久6年)
「鎮西守護」に任じられ、豊後国、筑前国などに荘園を得ていた中原親能は、
鎌倉屋敷に住し、朝廷と幕府間の折衝役として忙しい日々を送っていましたが、
1209年(承元3年)
京で、亡くなりました。67歳でした。
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