源頼朝といえば、
「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」が浮かぶ方多いのではないでしょうか
(現在では1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府ですが)。
めちゃくちゃ語呂がよくて、筆者もこれだけは唯一覚えています(笑)
今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に源頼朝が登場しています。
ドラマでは大泉洋さんが演じておられますね。
頼朝は平氏との戦いに勝ち、
鎌倉に武士を中心とした「幕府」という政治の仕組みを作った人物です。
また、京都において
天皇&貴族中心の政治→武士が中心の政治の
仕組みを作ったことや、
日本全国に年貢(今でいう税金)の取り立てを行う→「地頭」
そしてその「地頭」のチェックする人→守護をおき、
鎌倉を中心に全国をおさめたことや、
鎌倉に幕府を開いたことで、新しい文化&情報が鎌倉にも
集まるようにするなど日本を語るうえで外せない人物の一人と言ってもいいのではないでしょうか。
ちなみに、低身長だったみたいですけど、
容姿端麗の超イケメン!女性に優しくおモテになったそうですよっ。
壮絶な人生を生きたからか、心は
強く頼もしく格好いい!
頼朝を簡単に一言で言うと「実にいい男!」なんです!
では、さっそく、
源頼朝にスポットライトをあててみていきたいと思います。
源頼朝とは
誕生
1147年(久安3年)源頼朝は、
源義朝(武士)と、藤原季範(ふじわらのすえのり・熱田神宮の神職)の娘(正室)との間にに三男として誕生しました。
幼名→鬼武者/鬼武丸
頼朝には腹違いの兄弟がたくさんいます。
(兄二人→討ち死にしています)
平治の乱
1159年(平治元年)13歳。
「平治の乱」
(父・義朝VS平氏・平清盛との戦い)
「平治の乱」に敗れ、父・義朝や兄らは味方の裏切りにより殺されました。
1160年(平治2年)14歳。
まだ子どもだった頼朝は平清盛の母の助命嘆願で命までは奪われず、
伊豆(神奈川県/現在の静岡県)に流され、
20年もの年月をその地で過ごしました。
結婚
1177年(治承元年)31歳。
北条政子(北条時政の娘)と結婚。
「いつか平氏を倒す」という気持ちはずっと消えることはなく…。
平氏討伐
20年たったある日、
後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)から、
「平氏を倒せ」という命令が届きました。
1180年(治承4年)34歳。
頼朝は平氏を倒す為、義父・北条時政を初めとする平氏に不満をもつ武士が集まり、
頼家弟・源義経とともに挙兵。
VS平氏「石橋山の戦い」→負ける
VS平氏「富士川の戦い」→勝つ
京都から平氏を追い払い、
1184年(元暦元年)38歳。
侍所(武士が政治を管理する役所)をおきました。
余談ですが、頼家は結構な数の戦をしていますが、前線にはあまり出ていなかったようです。
唯一出陣した「石橋山の戦い」は、なかなかの勇姿を見せていたようですが、敗退。結果、逃げ出すことになったそうです。
「富士川の戦い」は弟・源義経にエールを送り、
頼家は武士が中心となって政治を行える仕組みをつくっていました。
これが後の鎌倉幕府です。
義経との対立
1185年(元暦2年)39歳。
弟・義経が「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅ぼしましたが、
義経は朝廷からほうびをもらうなど、勝手なことをして頼朝を怒らせ、二人は対立関係に。
頼朝は義経を鎌倉から追放。
頼朝は義経を討つように命をだし、
1189年(分治5年)43歳。
源義経は東北へ逃げていたところを討ち取られました。
頼朝は、弟までも滅ぼしたのです。
そこまでしなくても。。
褒美くらい…。と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、
大事なことなんです。
そもそも朝廷から離れて、武士による政治を行おう!としていたのです。
朝廷から褒美をもらって喜んでいたら、
武士<朝廷
の構図が丸出しになっちゃうのです。
(ちなみにランクの低い褒美だったそうです)
それに、弟だからって許していたら一緒に戦ってくれた者に示しがつきませんよね。
弟の処分は辛いものがあったと思いますが、
このエピソードからも頼朝は一本筋の通った人なんだなぁーと感じますね。
鎌倉幕府
で、その後頼朝は、
・地頭(年貢のとり立てを行う)
・守護(地頭の見張り役)
をおきました。
この時代の日本の政治の中心は京都にあって、天皇や貴族が政治をおこなっていましたが、
1192年(建久3年)46歳。
頼朝は征夷大将軍となり、
政治の中心を鎌倉にうつし、鎌倉幕府をつくり600年の間、武士による政治を行うことになりました。
日本で初めてのことです。
1199年(生治1年)53歳で亡くなりました。
死因は、確かなことが分かる資料が無く、落馬か溺水ではないかと言われていますが、
暗殺?尿崩症?糖尿病?
などを疑う声があります。
まとめ
鎌倉幕府は、頼朝の死後130年後に滅びますが、
その後できた
・室町幕府
・江戸幕府
鎌倉幕府の仕組みを参考に、武士による政治のしくみを発展させていくのです。
源頼朝は、平氏と源氏の存在により混乱していた世のを平定し、
武士の世の基礎をつくりあげ、
京都の貴族が政治や文化の中心だったのが、
地方の鎌倉に幕府を置いたことで、新しい文化や経済の流れが生みだしたことを総合して、
源頼朝は新しい時代を切り開いた人物といえるでしょう。
頼朝は、側室も合わせると、四男二女をもうけています。
長男・千鶴丸(北条政子と結婚する前に生まれた)は3歳で殺され、
次男・源頼家(二代将軍)23歳で伊豆修善寺に流され殺され、
三男・貞暁(妾の子)仏門に入り、
四男・実朝(三代将軍)頼家の息子・公暁に殺され、
2人娘も若くしてこの世を去り、
実朝の死で頼朝の血は完全に途絶えています。
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