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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』朝日将軍 木曽義仲とは

今回注目したいのは、
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する
平安時代末期の信濃源氏の武将・木曾義仲です。

ドラマで演じられるのは、演技力&存在感抜群の青木崇高さん!

木曽義仲は、源頼朝と従兄弟にあたり、
源義仲(みなもとのよしなか)の名前でも
知られている人物です!

で、この義仲、実は頼朝よりも前に平氏を撃破し、数カ月ですが、
一時は入京し、征夷大将軍にまでのぼりつめて天下人となった武将なのです!

では、さっそく見ていきましょう!

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出生

1154年(久寿元年)
河内源氏の一門、源義賢の次男として武蔵国大蔵館で誕生しました。
幼名→駒王丸

父・義賢は、武蔵国で最大勢力とされる秩父重隆の娘と結婚していますが、
義仲の母は、小枝御前は遊女だったとも言われていますが、
秩父重隆の娘の可能性も無くはありません。

諸説あり、はっきりとしていないのです。

父・義賢には、二人の母が違う兄がいたのですが、
為義は、父・義賢を棟梁にし、本家を相続させました。

そのことを面白く思わなかった畠山重能(秩父重隆の兄)が
鎌倉入りしていた源義朝&源義平(源義朝の子であり頼朝の兄)と
手を結び大蔵館を襲撃。(1155年(久寿2年))

父・義賢が討たれ、2歳だった義仲にも殺害命令が出ていましたが、
義朝方の武将・斎藤実盛らの計らいで、
信濃国木曽谷に逃れ、豪族・中原兼遠の庇護下で大切に育てられました。

そして、ここで腹心となる友に出会うのです。

・今井兼平(兼遠の息子)
・樋口兼光

終生愛する女性に、
・巴御前(兼遠の娘)
 →幼馴染のような間柄で育ち、
  のちに公私共にパートナーとなる人物

成長すると通称を駒王丸→木曾次郎としています。

挙兵

1180年(治承4)26歳
皇族の以仁王が打倒平家!の令旨を全国に発し、義仲も挙兵。

信濃国→上野国に順調に兵を進め、横田河原にて平家の大軍を撃破。
越後の国府に入りました。

以仁王→討死。

1183年「源平倶利伽羅合戦」

平宗盛(平清盛死後の後継者)は、維盛(甥)を木曽義仲討伐の為、
10万人の兵を北陸へと進ませました。

対する義仲軍の兵は3万人。
(人数は調べると7万VS4万だったりしますが、とにかく義仲の方が圧倒的に少なかったのです)

義仲は、平家軍より先に倶利伽羅峠の埴生庄に到着し、
埴生八幡宮(源氏の氏神を奉る)を見つけ、戦勝の祈願文を奉納すると、
白鳩三羽が源氏の白旗の上に飛び降りたという逸話が残されています。

話は戻ります。

で、人数ではかなわない。

でも、ここで諦めないのが木曽義仲。

義仲は頭脳戦にでます。題して「夜の奇襲作戦」

平家軍を倶利伽羅峠に留める為、源氏の白旗を立て、大軍と見せかけ、
平維盛は、旗を見て倶利伽羅峠の猿ケ馬場でまんまと停止。

その日は戦にならず。
にらみ合いに…。

この間に、義仲は樋口兼光の軍勢を平家軍の背後に回らせ深夜まであえて待機。

好機を見計らって突如、義仲軍が三方から平家軍を攻め、
松明(角に火がついた)をつけた牛を放ちました。

「火牛の計」

平家軍は混乱し逃げ惑い、
追い詰められ、30mもある谷底へ。

平家の死体が谷に積み重なり、川は血、膿で染まり、
その谷を→「地獄谷」
その川を→「膿川」
といいます。

義仲軍は大逆転の勝利で平家軍は大敗。

そのまま義仲軍は勢いにのり、
京へ進んでいきます。

敗走する平家軍に義仲は追撃をかけ、
再度、平家軍は敗れましたが、

この戦で、
武将・手塚光盛(義仲軍)が、斎藤実盛を討ちとりました。

斎藤実盛は、かつて、義仲を逃がしてくれた、いわば命の恩人。
義仲は、斎藤実盛の死に涙したと伝えられています。

平家は、安徳天皇を奉じて、京から脱出。

朝日将軍

1183年(寿永二年)
無血で京へと入り、「朝日将軍」の称号を後白河法皇より得る。

この時、義仲の元に逃げてきたのが、北陸宮。以仁王の息子です。

北陸宮を義仲は保護しました。

後白河法皇から直に「平家追討」院宣を受け、
同時に、京の治安維持の役目も命じられますが、

ここで義仲はタブーを犯してしまいます。

それは、
「安徳天皇の後、次の天皇には誰がなる?」
という話しの中で、義仲は北陸宮を推しちゃったのです…。

「武士ごときが!」
ってやつです。

皇室後継に口を出すのはタブー。
皇族&公家らに不快感を与え、
せっかく征夷大将軍に任命され武士の頂点にまで上り詰めたのに…。

わずか数カ月で破滅へと向かうのです。

破滅

後白河法皇が頼朝に木曽義仲討伐院宣を出され、逆賊として義仲は京から逃れることになるのです。

・源範頼
・源義経
の率いる軍勢が、京を目指します。

この時、既に京洛での支持を失っていた義仲に従う兵は極わずか…。

そして「宇治川の戦い」で敗れ…。

その時、義仲の側にいたのは、苦楽をともにした今井兼平、巴とわすがな兵たち…。
巴は「最期までともに!」という思いでいましたが、

義仲は「女を死なせては義仲の名折れ」と、戦場から巴を離脱させ、
近江国粟津に着いたあたりで義仲の前に範頼&義経側の一軍が現れました。

義時側はこのとき数騎になっていて、義仲は、
「普段は何ともない鎧が、今日は重たく感じる」
「兼平、ともに戦って討死しよう」

と、弱音を吐くと、兼平は叱咤。

「大将が名もなき雑兵の手にかかっては名折れ」と、兼平は自害を勧めました。

兼平は奮戦し、時間を稼ぎますが、
馬が泥沼に足を取られ、義仲はあえなく討ち取られてしまいました。

このあとに兼平も、後を追い自害を遂げています。

よく木曽義仲は「悲運の武将」とされますが、
生き方は男気があって格好よくて現代でも人気のある武将の一人です。

木曽義仲は、田舎育ったからか「粗暴な振る舞いが目立つ」と書き残されていますが、
人情があって、仲間から慕われていたのだそうです。

しかも結構なイケメンだったようなので、
現代でもし生きていたら、きっと老若男女に好かれて
ハッピーな人生を生きていたのではないでしょうか。

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