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【大河ドラマ】『鎌倉殿の13人』梶原景時とは~後編~

独裁的な政治を制御し、まだ若い頼家を支える為、
将軍+有力な御家人たちが
話し合いで政治を決めていこう!
ということで発足した、
「13人の合議制」

今回は梶原景時~後編~をお送りします。

前編はこちらです。

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梶原景時とは

不和

1184年(寿永3年)
「宇田川の戦い」

梶原景時の使者は、戦況を事細かに記した報告書を源頼朝に渡し、

梶原景時
・事務能力
・実務能力
の高さを評価したとされています。

しかし、報告内容には、
御家人の功績の他
失敗も知らせるので、皆から煙たがられていました。

源義経のことも批判していたようで、
「傲慢であり武士たちは緊張を強いられている」
とか
「他者の意見を聞かない」
と報告していて、

後に梶原景時の讒言(ざんげん)
(他者を陥れる為、ない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと)と
されるようになります。

で、これを受け、源頼朝は源義経を勘当しています。
(「吾妻鏡」より)


1184年(治承8年/元暦元年)~1185年(元暦2年/文治元年)
「源平合戦」

軍の指揮を執り、功績を挙げ地位も高まってきましたが、

源氏は源範頼をトップとする軍と、
源義経をトップとする軍の2つに分かれて戦っていたのですが、

景時源義経の軍に加わっており、
作戦について二人の考えは異なり、対立

「壇ノ浦の戦い」でも考えが異なり、衝突

二人の関係は、ギスギスギス…。

追放

1199年(正治元年)
源頼朝死後将軍には源頼家が就任

若い将軍を支える為「13人の合議制」を発足。
梶原景時も一員になります。

ある日、御家人結城朝光が源頼家の独裁政治を嘆いたとき、
梶原景時が怒って、頼家に結城朝光の処分を求めますが、
他の御家人景時は嫌われていたので、

結果、結城朝光を罪に問うはずが、
御家人66名の署名を集めた連判状が出され、景時は追放

なぜ、景時は怒ったのに、周りは結城朝光の味方になったのでしょうか。

「吾妻鏡」によれば、
結城朝光が「夢でお告げを受けた」とし、
皆に、亡くなった源頼朝に「一万遍の念仏」を唱えることを勧め、「南無阿弥陀仏」を唱和。

その時、朝光が
「忠臣は二君に仕えずと申すが…。
頼朝公が亡くなられた時、出家をとどめられたこと後悔している…。」

と語ると、皆はこの言葉に涙したのだそう。

☆ちなみに、結城朝光の父は、小山政光。
母は、寒河尼(源頼朝の乳母)。

2日後、
阿波局(あわのつぼね)「梶原景時の讒言で、あなたは殺されるかも」と結城朝光に告げ、
驚いた結城朝光は、親交のある三浦義村に相談。

☆阿波局の
父→北条時政
姉→北条政子
で、
阿野阿野全成(源頼朝の弟)の妻
そして
千幡(源実朝)の乳母であった女性です。

景時の讒言内容は、
朝光が唱えた「一万遍の念仏」で「忠臣は二君に仕えず」と述べた。

現将軍(源頼家)に敵対している

というもの。

これに対し、朝光は

「頼朝公より受けた御恩を思うと須弥山の頂より高いもので、
昔を慕うあまりに“忠臣は二君に仕えず”と言った」と釈明。

義村は「宿老たちに相談すべき」
とし、

和田義盛
安達盛長などが集まり、

味方の署名を募り景時を訴えることに…。

文章が得意中原仲業(景時に恨みを抱いていた)訴状を担当

そして、

・千葉常胤
・三浦義澄
・三浦義村
・畠山重忠
・小山朝政
・足立遠元
・和田義盛
・比企能員
・結城朝光
・葛西清重
・八田知重
・岡崎義実
・天野遠景

らが鶴岡八幡宮の回廊に。
中原仲業が訴状を読み上げ、終息。

訴状には66人の御家人が署名・血判。
 
ちなみに、訴状の中に北条義時・時政の名前はありませんでした

北条時政は参加していなかったようですが、
裏で御家人を操っていたのは確かなこと。
と考えられています。

そして、訴状は将軍頼家提出する為、和田義盛&三浦義村が、大江広元に託しています。

大江広元は、景時が人を陥れることを気になってはいましたが、
源頼朝に親しく仕えていたことを考えると直ちに処罰!…とはならず穏便に治める方法を思案。

しびれを切らした和田義盛に将軍に見せたのか聞かれ「まだ…」と言うと、激怒

広元は頼家に伝えると約束して席を立ちました。

和田義盛が激怒の裏にはこんなことがありました。

1180年(治承4年)侍所別当だった和田義盛。

1192年(建久3年)
「一日だけ名を貸して」と景時に頼まれ
喪に服さなけれならなかった義盛は、それを承諾。
で、そのまま職を奪われた…。ということがありました。

そして、広元は連判状を頼家に提出。

頼家景時に弁解余地を与えるが、何の弁解もせず
翌日、子息・親類(子・景茂は鎌倉に残りました)を率いて相模国一の宮に引き下がりました。
後日、比企邸での宴会に景茂が出席。中原仲業も来ていて、頼家が訴状に触れると
景茂は、
「父が悪だくみするわけがない」といったといいます。

景時は一度鎌倉に戻りましたが、評定の結果が出、鎌倉から追放されました。

景時の屋敷は解体→永福寺の僧侶の住居として寄附。

最期

1200年(正治2年)
上洛しようとしましたが、
駿河国清見関付近で在地武士と合戦になり、景時は嫡子・景季と討死
こうして梶原一族は滅亡しました。

景時の上洛理由「武田有義を将軍にする為」とされていますが、定かではありません

ドラマでは、歌舞伎役者中村獅童さんが演じられます!

静と動の演技が素晴らしく迫力ある演技で魅了されます

これからの展開見応えありそうですね!
楽しみです!

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