今回は、北条義時の父・北条時政 (ほうじょう ときまさ)に
注目してみたいと思います!
一族を繁栄に導いた時政とはどのような人物だったのでしょうか。
ドラマでは歌舞伎役者の坂東彌十郎(ばんどう やじゅうろう)さんが
良い演技で時政を素敵に魅せてくれています(良くも悪くも(笑))
とにかくドラマの父・北条時政は、
おちゃめで人間味溢れるキャラクター。
見ていて結構面白い。
間違いなく今回のドラマを盛り上げている一人であると思います。
では、実際はどのような人物だったのか、さっそく見ていきましょう。
北条時政とは
誕生
1138年(保延4年)
北条時政は、伊豆国北条(現在の静岡県)の在地豪族の子として誕生したといわれています。
豪族とは、今でいうと、知事とか市長とかといった感じです。
生まれた具体的な日付は不明です。
祖父→北条時家
父→北条時方
ごくごく一般的なといいますか、ふつーーーうの家柄です。
それが、鎌倉幕府の執権を握るまでになるのです。
すごい活躍ですよねぇー。
転機
北条時政が活躍するようになったのは、
源頼朝が伊豆に流されてからのこと。
北条家は桓武平氏の子孫で、
2番目の妻・牧の方の父は、平清盛の家来。
そんなつながりから、北条時政は、
伊豆での源頼朝の監視役を任せられ勤めることになりました。
このことがきっかけで、
娘の北条政子が
源頼朝と恋仲になりました。
はじめは二人のことを猛反対していました。
「平氏の子孫であるのに、なぜ娘を源氏に。」
しかし、その一方で、平清盛の悪政の噂があり…。
最終的には二人のことを認め、
結婚。
ちなみに授かり婚です。
でも、もしかすると、頼朝の才覚に早い段階から気が付いていたのかもしれませんね。
鎌倉幕府へ向けて
1180年(治承4年)43歳。
源頼朝挙兵。「源平合戦」
「石橋山の戦い」で、嫡男・宗時を亡くしました。
「富士川の戦い」で平家軍を敗走させました。
1182年(寿永1年)45歳。
頼朝の愛妾問題が機に伊豆へ一族で立ち退きました。
1185年(元暦2年)48歳。
「壇ノ浦の戦い」→平氏滅亡。
鎌倉幕府成立。
平氏滅亡後の、源氏の武士として京での治安維持に尽力。
平家の子孫として、京でも顔の効く時政は、
京の人々も素直に従ったようなので、
京を統治するにはまさに適役。
頼朝の幕府成立に大きく貢献しました。
源頼朝は、後白河法皇に
「守護・地頭」の設置を認めさせる為、
北条時政を京へ送り込みました。
時政は兵(1000騎)を率いて、
強制的に後白河法皇の院政停止を断行。
京都守護として幕府の畿内での体制を再構築。
守護&地頭を設置。
京の管理を任されます(「京都守護」)が、4か月後、京を離れています。
1189年(文治5年)52歳。
奥州征伐の戦勝祈願のため願成就院を建立
1199年(正治1年)62歳。
源頼朝死去。
13人の合議制の一人として名を連ねました。
次第に時政は政治の有力者となっていきます。
鎌倉幕府次期将軍には、源頼家が18歳で家督を相続し、就任。
鎌倉幕府2代将軍となった源頼家は、
比企氏の一族に高い地位を与え、
時政は、そのことに不満を感じていました。
1200年(正治2年)
北条時政は「遠江守」に任じられ、
源氏一門以外で初の国司となりました。
比企氏もさらに力をつけ、
両者の対立は深まっていったのです。
1203年(建仁3年)66歳。
時政は比企能員を
自邸に呼び出し殺害。
2代将軍の源頼家を退かせて伊豆国修善寺へ追放。
→「比企能員の変」
次に3代目将軍となったのは、まだ12歳の源実朝(源頼家の弟)。
幼いということで、北条時政が初代執権に。
こうして、
日本の政治の実権を握ることになったのです。
晩年
1205年(元久2年)6月 68歳。
「畠山重忠の乱」
時政は3代将軍の源実朝を殺害し、
平賀朝雅を新将軍にしようとしましたが、
失敗。
結果、鎌倉から追放。
陰謀は失敗してしまいます。
幕府で孤立した時政は、出家。
伊豆国の北条で隠居。
1215年(建保3年)78歳。
追放先の伊豆国北条にて死去。
どうして平賀朝雅を新将軍にしようとしましたのかといいますと、
時政の後妻・牧の方が、娘婿の
平賀朝雅を「将軍にしたい!」といったから。
だそうです。
それだけではなかったのかもしれませんが、このことがなかったら…と、
どうしても、歴史には考えても仕方のないタラレバを思ってしまうものですね。
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